静岡県には、県指定の天然記念物が17種類あります(2016年12月現在)。
その中に「徳川家康の手植えのミカン」があります。今回、猫たちと訪れた駿府城公園(静岡県静岡市葵区)の、柵で囲った一角で、ひっそりとミカンを豊かに実らせています。
今回のブログでは、この駿府城公園の歴史を辿りつつ、家康の愛したミカンと日本のミカンのルーツについても追ってみたいと思います。
◇ 徳川家康と駿府城
駿府城は、徳川家康が晩年まで隠居生活をした城として有名です。
家康は、戦国時代真っ只中の天正13年(西暦1585年)に居城(マイホーム?)として駿府城の築城を始めました。そして天正17年(西暦1589年)に完成しました。
慶長5年(西暦1600年)、関ヶ原の戦いに勝利し征夷大将軍となった家康は、それから5年後の慶長10年(西暦1605年)、将軍職をあっさりとわが子秀忠に譲ります。
そして、その翌年には、家康は、駿府城へ隠居し、政治の表舞台から引退した形をとりました。
しかしながら、家康は第2代将軍秀忠の「影のドン?」として、隠居してもなお政治を取り仕切りました。家康の隠居後の敬称が「大御所」だったため、これを「大御所政治」と呼びました。
◇ 駿府城公園のはじまり
駿府城公園は、駿府城がかつて存在した場所に作られた公園です。
江戸時代が終わり、明治の世になると、陸軍省によって内堀などが埋め立てられ、また天守なども取り壊されてしまい、石垣などの一部だけが残されました。
明治、大正、昭和と時代が移り変わるとともに、駿府城の管轄も、陸軍省→自治体→陸軍省と変わってゆきました。
太平洋戦争が終わると、駿府城の本丸と二ノ丸は、静岡市が所有することになり、静岡市民の憩いの公園として整備されました。
この頃、実はこの公園は中央公園と呼ばれていました。
昭和26年(西暦1951年)には、市民アンケートの結果をふまえて改名されることになり、駿府公園となりました。
さらに、平成に入ると、日本古来の伝統的在来工法によって巽櫓(たつみやぐら)などいくつかの建造物が復元されました。
ついには、平成24年(西暦2012年)4月、徳川家康が造営した駿府城という歴史的価値を市民に自覚してもらい、さらにそれを全国へ発信することを目指して「駿府城公園」と改名されました。
◇ 家康はミカン好き?~お手植えの蜜柑
駿府城で隠居生活を送っていたころ、家康自らお手植えしたと伝えられるミカンの木は、以下の写真のように柵で囲まれています。
この場所は、かつて本丸御殿のあった場所の一部と考えられており、当時からこの場所にミカンの木があったと考えられています。
ミカンはキシュウ(紀州)ミカン(当地の方言でホンミカン)の一種だそうです。日本で最初に広まったミカンです。
中国から交易港として栄えていた肥後国(現、熊本県八代市)に伝わったものが、このミカンのルーツです。
それが、やがて高田(こうだ)みかんとして栽培されるようになり、15 ~ 16世紀ごろ、紀州(現、和歌山県有田郡)に伝播します。すると、紀州でミカン産業が大ブレークします。
このことがきっかけとなり "紀州" ブランドのミカンが広く日本国中に知れ渡ることになりました。
そんな折に、家康の元にも紀州藩より献上品として届いたのが、このキシュウミカンの苗木でした。
野鳥(カラス?)が食べたと思われる、ミカンの皮と房の一部が柵の外に落ちていましたので、じっくり実物を観察できました。
私たちが普段食べている「ウンシュウ(温州)ミカン」と見た目はほとんど変わりませんが、果実の直径は5 センチメートル程度と小ぶりでした。房を見るとやっぱり種が含まれていました。
ちなみに、ウンシュウミカンは種が無いので、世継ぎが生まれないとお家断絶の危機となる武士の世にあっては縁起が悪い果物とされました。そのため当時は、ほとんど栽培されることはなかったそうです。
家康は、このキシュウミカン以外に、サクラジマミカンという品種についても、1603年(慶長8年)薩摩藩から献上を受けたという記録が残っています。
家康はミカンが好きだと、諸国の大名の間ではよく知られた事実だったのかもしれませんね (*^_^*)
だいきちは、バギーの中で寝ていて、今、やっと起きました (*^_^*)
ちなみに、今年2016年の家康お手植え蜜柑の収穫は12月8日(木)、一般への配布は12月10日(土)だそうです。先着100名様だけが入手できるそうですよ。
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2コメント
2016.12.07 04:29
2016.12.06 13:48